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 2018年5月26日 法政哲学会のシンポジウム「加来彰俊先生のご業績と思い出」において,小生が恩師について発表した提題です.私は恩師を通して西洋古典と出会いました.お読みいただけましたら,幸甚です.

                      弘前大学での加来彰俊先生

               三上 章(元東洋英和女学院大学教授。聖書・古典講読会主宰)

 

 1965年,加来彰俊先生は弘前大学に助教授として着任され,1967年に教授になられた。その翌年の1968年,私は弘前大学人文学部文学科に入学した。当時,まだ旧制弘前高校の校舎が残っており,新校舎と並んで使用されていた。単身赴任の先生は,大学の近くの老朽化した公務員宿舎に住んでおられた。

 

1 哲学概論と波多野精一

 1年次の春,私は先生の担当する「哲学概論」を履修した。教科書は田中美知太郎先生の『哲学初歩』(岩波全書)であった。哲学と宗教の関係についてのくだりで,『歎異抄』の「踊躍歓喜のこころ」と「宗教には飛躍がある」というお話をうかがった。それに感動した私は,先生からもっとお話を聞きたいという抑えがたい思いから,おそるおそる研究室のドアをノックした。歓迎された(と思った)私は,調子にのって長居した。「波多野精一先生の『宗教哲学序論』や『宗教哲学』を読んでいます」という話をしたところ,「それはめずらしい」と興味を示してくださった。先生は学徒出陣の折,波多野精一の『時と永遠』を携帯したとのことである。「今度,岩波書店から波多野精一全集が出版されるから,君も購読しないか」と勧めてくださった。これが先生との出会いのきっかけである。

 

2 ギリシア語新約聖書読書会

 私は大学入学と同時に,キリスト教の宣教師たちとの出会いがきっかけで,英語聖書を読むようになった。教会にも通い始めた。内村鑑三や矢内原忠雄も読みふけった。そのうちに新約聖書をギリシア語原典で読みたいという気持がわいてきた。キリスト者の先輩から教わった,新約聖書ギリシア語文法書や新約聖書希英辞典をたよりに,ギリシア語新約聖書を自己流で読み始めた。そのことを先生に話したところ,「よかったら一緒に読みませんか」と勧めてくださった。田中美知太郎先生は,出征にあたり,ギリシア語新約聖書を携帯されたという話をうかがった。お言葉に甘え,毎週日曜の午後,先生の自宅にうかがい,『ルカ福音書』の読書会が始まった。「哲学はぼくが先生だけれども,聖書はキリスト者である君が先生だから,何でも自由に教えてください」というお言葉をいただいた。それはお世辞ではなく,「“聖霊”とは難しい概念だね」などと積極的に質問をなさった。先生は風邪の時でも,蒲団に入ったまま相手をしてくださった。というより私が遠慮をしなかった。

 この読書会は,大学卒業まで続いただけではなく,その後も断続的に続いた。というのは,私は卒業と同時に,東京にある私塾のような神学校に入ったが,幸いなことに,その翌年の1973年,先生は法政大学に移ってこられた。おかげでギリシア語聖書読書会が再開した。その後,海外留学のため4年間の中断があったが,帰国後,再開していただいた。『ルカ福音書』に続いて,『マタイ福音書』,『マルコ福音書』,『ヨハネ福音書』を読了し,『使徒行伝』の途中まで読んでいただいた。通算10年以上になると思う。

 

3 独文のA先生に対する一喝

 私が所属する人文学部文学科は,2年次に専攻が決まる制度になっていた。私は西洋哲学専攻に決めていた。1年次の終わり頃には,先生たちによる「青田買い」が始まった。独文のA教授というゲーテを専門とする先生がおられて,有望な学生を見つけては訓練し,東大や都立大の大学院に進学させることに力を注いでおられた。そのうち,独文の助教授の先生から,「君は独文に来るのですか?」と暗に勧誘されたが,「いいえ」と答えた。すると今度は,A教授から直接に「君は独文に来なさい。哲学専攻は語学のできない学生が行くところです」と言われた。このことを加来先生に話した。後から野町啓(のまち あきら)先生から聞いたところによると,「廊下で加来先生が独文のK先生とやりあっていて,「三上君の意志を尊重してあげてください」と一喝なさった」とのことである。野町先生は,私に古典ギリシア語や初期キリスト教教父哲学を手ほどきしてくださった,キリスト教の学問の恩師である。

 

4 プラトンのギリシア語原典講読

 1年次の秋,ギリシア語による『ソクラテスの弁明』の演習に「傍聴」をゆるされた。2年次以上の科目であるため,正式の履修はできなかった。加来先生と野町先生が隔年で担当してこられた,田中美知太郎・松平千秋『ギリシア語文法(岩波全書)』の履修者のなかから,ついにプラトンをギリシア語原典で読む学生が誕生していた。その人は2年先輩のBさんである。演習は先生の研究室で行われた。テキストはオックスフォード古典テキスト版を使用し,毎回,約3頁の割合ですすんだ。先生は,「演習ではテキストをできるだけ正確に訳すことに専心すること。哲学的議論は家でやること」という田中美知太郎先生のやり方を踏襲された。とてもまじめな学生であるBさんは,いつもLSJ 希英辞典やデニストンの The Greek Particles を入念に調べて,演習にのぞんだ。彼が四苦八苦しながらテキストを訳すたびに,先生は「これなら藤沢君のところに出しても恥ずかしくない」と口癖のようにいわれた。私もいつしか先輩のようにほめてもらいたいと思い,LSJ やデニストンをあつらえた。やっと『弁明』を読み終えたとき,先生は学生には高級すぎるレストランで私たちをねぎらってくださった。食後に「欲しい本がありますか?」と聞いてくださった。これも田中先生伝来のやり方であった。洋書が高価だった時代である。私はバーネットの『パイドン』註解を買っていただいた。

 2年次には,私も正式に演習に参加できるようになり,末席をけがすことになった。とはいっても,先輩と私の二人だけである。前期は『クリトン』を,後期は『ラケス』を読んでいただいた。入手困難であった高津春繁『ギリシア語文法』(岩波書店)をお借りした。そこかしこに先生の書込がしてあった。返却を求められないことをいいことに,ずっと借り続け,今も手元にある。先生の形見となった。

 悔やまれるのは,もっと勉強しておくべきだったということである。前述のように,1年次の春,私はアメリカ人・カナダ人・イギリス人の女性宣教師3人によってキリスト教に絡め取られ,大学の近くにある宣教師館に入り浸っていた。日本語があまりできない彼女たちのために,バイブルクラスなどで通訳のサポートをしていた。口の悪い友人たちから,「三上はキリスト教に取られた」とか,「ミカミはカミになった」などとひやかされたものである。大学に行くのは,加来先生と野町先生の演習の時くらいであり,たまに他の授業に出席したりすると,女子学生たちから笑われた。キリスト教の実践に加えて,ボート部に入っていた私は,日々,ウェイトトレーニングに多くの時間を費やしていた。そういうわけで哲学の勉強はあまりやらなかった。諸先生の温情がなかったならば,絶対卒業できなかったと思う。

 

5 学園紛争と人文学部学部長の加来先生

 私の大学2年次は1969年であり,「学園紛争」(または学園闘争)の年である。私が住んでいた北瞑寮にも,東大生が「オルグ」にやって来た。その人から「弘大生のわりにはできる」といわれ,素直に喜べなかった。寮の主(ぬし)のようになっていた私の招きに応じて,先生は「民青」の拠点状態になっていた寮に果敢に足を運ばれ,対話の相手になってくださった。先輩の寮生にCさんという純粋な人がいて,「復活はほんとうにあるのか?」などとキリスト教に興味を示していた。やがてその人は私たちの前から消息を絶った。その後しばらくして,浅間山荘事件の報道のなかで,犯人の一人として彼の名前が報じられた。先生にその話をしたところ,もちろんこの人を知っておられ,彼が消息を絶つまで説得の努力をされたとのこと。おりしも先生は人文学部長であった。理事会側と学生闘士側のどちらにも安易にくみしない先生は,団交に次ぐ団交のなかで大変苦労された。ご心労のあまり「歯が全部抜けた」とのことである。授業ボイコットに同調する教員も少なくないなかで,加来先生と野町先生は,粛々と授業を続けられた。授業に出席する私などは,「ノンポリ」と呼ばれた。

 野町先生も体調を崩された。奥さまから,手術の輸血のためにA型の血液が必要なので,助けてほしいという連絡をいただいた。幸い私も同じA型であり(?),他にもA型の寮生4~5名を率いて,さっそく弘前大学病院に向かった。輸血の前に血液検査が行われ,看護師さんから「バカね。あなたはB型よ」といわれて,拍子抜けした。

 

6 アウグスティヌス『告白』(Confessiones)のラテン語原典講読

 3年次の夏休み前のことである。プラトンよりもキリスト教の勉強に没頭していた私は,『世界の名著〈第14〉アウグスティヌス (1968年)』の山田晶『告白』を読んだ。その内容はもちろんだが,日本語訳の美しさに感動した。そのことを野町先生に話したところ,山田晶先生の学風について詳しく講釈してくださった。感動を加来先生にも伝えたいと思い,先生の宿舎に向かった。いつものように予約なしに押しかけた。私の顔を見るなり,「しまった」とおっしゃるので,「どうしたのですか?」と聞くと,「明日の授業の準備がまだ終わっていない」とのこと。私は「そんなことは気になさらないで,夜を徹してお話しましょう」といった。よくそんなことを言えたと思う。「『告白』をラテン語原典で読むなら,さぞすばらしいことでしょう」と申し上げたところ,「夏休みにラテン語文法を勉強してきたら,秋からラテン語講読の相手をしてあげよう。ぼくもしばらくラテン語を読んでいないので,読んでみたい」と励ましてくださった。それに力を得た私は,夏休みを返上して,松平千秋・国原吉之助『新ラテン語文法』(南江堂)を学習した。約束通り秋から,課外学習として Confessiones 講読が始まった。Magnus es, domine, et laudabilis valde.「主よ,あなたは偉大です。大いに讃美されるべきです」という冒頭の句に陶酔したことを,今でも忘れることはできない。私の他に一人の女子学生が講読に参加したが,この人はやがて私と結婚することになる。4年次には,この講読を正式履修科目とし,単位取得の便宜をとりはからってくださった。

 このようにしてギリシア語新約聖書読書会,ラテン語アウグスティヌス講読,そしてプラトン演習というふうに,キリスト教の実践とウェイトトレーニング以外は,私は加来先生に入り浸りだった。当時はそのありがたさをよくわかっていなかった。ある日,先生から呼び出しを受けた。「事務から君が授業料を滞納しているという連絡を受けた」といわれた。洋書の買いすぎのため授業料を滞納していたのである。叱られると思った。ところが思いもよらず,先生の口から出た言葉は,「困っているならぼくが立て替えてあげようか」であった。さっそくお金をかき集めて,授業料を納めた。会計課の窓口をなぜかありありと覚えている。

 

7 卒業論文

 3年次の前期からは,演習で『パイドン』を講読していただくことになった。当時,人文学部にはまだ大学院課程がなく,「専攻科」という1年コースが新設されたばかりであった。講読の参加者は,その専攻科に進学した例の先輩Bさんと私の二人であった。相変わらず一所懸命予習してくる先輩を,先生は「これなら藤沢君のところに出しても恥ずかしくない」と励まし続けた。4年次には,先輩が卒業したので,私一人だけになった。さぞかし先生のテンションは下がったことであろうが,真剣に相手をしてくださった。演習後,「濃いめに」というリクエストのもと,ネスカフェのインスタントコーヒーを入れるのは,私の役目であった。

 3年次の秋となり,そろそろ卒論のことが頭にちらつきはじめていた。私は,イェーガーの『初期クリスト教とギリシア哲学』の翻訳者である,野町先生の哲学特殊講義で,キリスト教教父哲学を教わり,特にオリゲネスに関心をいだいていた。ご指導により『原理論』や『ケルソス駁論』を読み始め,関連する資料などを収集していた。卒論はオリゲネスにするつもりであったが,あるとき野町先生から「加来先生がお呼びだよ」といわれた。先生の研究室に行くと,「昔の哲学の学生は,君のように筋骨隆々ではなく,青白い顔をして哲学に勤しんだものだ」といわれた。「プラトンという太陽がさんぜんと輝いているのに,いきなりキリスト教教父哲学に飛び込むのはいかがなものか。まずプラトンから始めるのが順当だと思う」ともいわれた。こうして卒論はプラトンへ方向転換となり,私なりに『パイドン』の学習にもっと力を注ぐことになった。卒論の題目は,「イデア原因論─第二の航海─について」であった。『パイドン』のテキストの末尾に,「1972年3月4日,午後4時,加来先生の研究室にて読了」とある。後期の授業期間が終わっても,卒業の間際までお相手をしてくださったわけである。

 

8 神学校に入る

 私は1年次にキリスト者になってから,将来は牧師になりキリスト教を広めたいという思いが育ちつつあった。大学院に進学してプラトンを研究したいという考えもあったが,牧師になりたい思いがまさった。4年次の秋に,卒業後は神学校に入る決心をした。キリスト教に染まっていた私のことであるから,先生に対して,「哲学は人を救いません」のような暴言を吐いていたのではないかと思う。卒業式も終わり,神学校に入るために上京というとき,先生は私にこういわれた。「思う存分キリスト教の勉強をし,牧師になって活躍してください。しかし,君は40歳を過ぎるころに,哲学に戻ってくるのではないかと思う」。なぜかその言葉は私の心の奥深くに沈着した。

 

9 プラトン研究の再開

 やがて先生の「予言」は実現することになった。神学校卒業後,約20年間キリスト教の実践に没頭したが,40歳を過ぎたころ,私の心のなかにくすぶっていたプラトンへの情熱が一気に燃え上がった。その情熱は抑えがたく,プラトンを正式に学ぶために東京大学大学院の西洋古典学科に入ることになった。ありがたいことに,入学オリエンテーションの日には,先生が同伴してくださった。危険な場所ではないかと心配されたのかもしれない。

 プラトンへの復帰には伏線があった。私が上京した年の翌年,1973年,先生は法政大学に移ってこられた。さっそく先生は,ギリシア語によるプラトンの演習を始められたが,当時の大学院生のなかには,ギリシア語で読める人はいなかった。院生を励ます親心からだろうと思うが,ギリシア語で読めない人は院生であっても,「傍聴」という方針をとられた。したがって日大の向坂寛先生や若輩の私のような「外国人部隊」が,実演にあずかった。私の見るところでは,これに発憤した院生のなかからギリシア語を学習し,ギリシア語で演習に参加する学生が徐々に出てくるようになった。私は,1982年に海外留学から戻り,加来先生の研究室でギリシア語聖書読書会を再開していただいたが,そのついでに大学院の演習も傍聴させていただいた。このたびはギリシア語で読む院生たちが育っていた。奥田さんや白根さんたちである。

 昨年の5月24日に野町先生がなくなられた。そのことを加来先生に手紙でお知らせしたところ,6月7日付けの返信をいただいた。それにはこう書いてあった。「野町先生がなくなられたとの便りをいただきました。あまりにも突然の報せで驚くばかりで言葉もありません。告別式に出られてお見送りされたとのこと,よくなさいましたね。泉下で先生も喜んでおられることと思います。私はどうすることもできないので,コチョウラン一鉢の供花と奥様にお悔やみ状を書いておきました」。その後,一月ほどたった7月18日,加来先生は亡くなられた。私も旅立ちの日が来るまで,二人の恩師が歩まれた足跡をたどり続けたいと思う。

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