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  • 執筆者の写真Akira Mikami

花は見られることによって救われる

更新日:2020年4月16日

 「わたしはシャロンのばら,野のゆり」 『雅歌』2章1節

 この言葉は,おとめが大好きな若者に向けて発信した言葉である。若者から,君はきれいなばら,美しいゆりだと言ってもらいたいのだ。

 アウグスティヌスは,「植物は人から見られることを求め,見られることによって救われる」と言っている(『独語録』)。わが家でも,亡き母から継承した君子蘭が,今年も美しく開花した。植物が花をひらいて美しく咲き匂っているのは,人から見られたいと思っているのだ。それを見てあげることによって植物は救われる。

野道を歩いていて,ゆりの白い花がたった一輪だけ咲いていたとしよう。あっと思ってそこに目をそえる。そのときに,そのゆりの花とわたしのあいだにいのちの触れ合いが起こる。そのときゆりの花は救われる。

 「花」というのは,仏教では「人のいのち」のことである。そうすると,花が人に見られることを求めているということは,人が人に見られることを求めているということになる。私が生まれてこの世に自分のいのちをもって生きているということは,だれかに見られたいから生きており,だれかに見られたいからいのちを輝かしているということになる。

 しかも一輪だけ咲いている孤独な花ほど人の心を打つとすれば,孤独の世界をしみじみと味わった人のいのちは,見る人の心にぐっと迫ってくるものをもっているということになる。私はどうしてもそういう人を見たくなる。そしてその人をじっと見守る。見守るときにその人は救われる。そういう人になりたいと思う。




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